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神戸簡易裁判所 昭和60年(ろ)26号 判決 1987年1月22日

主文

被告人を罰金一万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金二〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

訴訟費用のうち、証人Kに支給した分は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六〇年一月三日午後三時一五分ごろ、普通乗用自動車を運転し、神戸市中央区下山手通二丁目五番六号先二車線道路(一方通行)の左側車線を南東進し、車両渋滞で停車した後、右側車線に進路変更するにあたり、同車線を後方から進行してくるK運転の普通乗用自動車があつたから、同車の動静を注視し、その安全を確認して進路変更すべき注意義務があるのに、これを怠り、同車の動静注視不十分のまま右転把しつつ発進し、時速約三キロメートルで右側車線に進出した過失により、折から自車右側直近を徐行進行中の同車後部バンパー左端に自車前部バンパー右端を接触させ、もつて他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなかつたものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

判示所為 道路交通法一一九条一項九号、二項、七〇条

労役場留置 刑法一八条

訴訟費用 刑事訴訟法一八一条一項本文

(一部無罪の判断)

本件公訴事実中、被告人が前記認定の過失による安全運転義務違反の行為をした際の事故によつてK車の同乗者Yに対し加療約一五日間を要する頸椎捻挫等の、Tに対し加療約一五日間を要する頸椎捻挫の各傷害を負わせたとの事実については、検討の結果、それを認めるに足りる証拠がなく、したがつて、被告人に対する業務上過失傷害の公訴事実については、その証明が十分でないと判断したので、以下その理由を略述する。

一前掲各証拠並びに証人Y、同T、同Mの当公判廷における各供述及び鑑定人小鳩亨作成の鑑定書によれば、

(一)  被告人は、昭和六〇年一月三日午後三時一五分ごろ、普通乗用自動車(タクシー)を運転し、神戸市中央区下山手通二丁目五番六号先二車線道路(一方通行)の左側車線を南東進し、車両渋滞で停車した後、右側車線に進路変更するにあたり、バックミラーで同車線後方約四・八メートルの地点から時速約一〇キロメートルで進行してくるK運転の普通乗用自動車(タクシー)を認めたのに、同車の動向注視不十分のまま右転把しつつ発進し、時速約三キロメートルで右側車線に進出したため、未だ自車右側直近を通過中の右K車に気付き急ブレーキをかけたが間に合わず、同車後部バンパー左端に自車前部バンパー右端を接触させ、自車はその場で停止し、K車もブレーキをかけて約三メートル進行して停車したこと

(二)  右両車両の総重量はほぼ同程度であること

(三)  右の接触事故により、被告人車は前部バンパー右端のゴムに擦過痕が生じ、一方、K車は後部バンパー左部が僅かに曲損していること

(四)  右両車が接触した際、K車の右側後部座席のYは不安定な姿勢で座り、助手席のM、左側後部座席のTは普通の姿勢で座つていたものであるが、K、Y、Mとも前後の方向の揺れしか感じておらず、左右の揺れは極めて軽微であること

が認められる。

右認定の被告人車とK車の接触時の速度、接触の態様、両車両の総重量と損傷の程度及び乗員の揺れの状態等を総合して考察すれば、本件接触によつてK車に及ぼした衝撃力は軽微であつたと認められる。

二(一)  前記各証拠並びに証人Nの当公判廷における供述、同人作成の診断書二通及び「交通事故受診者診療経過等照会に対する回答書」二通、検察事務官作成の「電話要旨」と題する書面、社会保険神戸中央病院作成のY及びTに対する各診療録、春日記念病院長S作成の病状照会回答書によれば、Tは、事故当日春日記念病院で診察を受け、背部打撲傷の病名で湿布し、鎮痛薬を投与され、翌一月四日Y、Tの両名は、社会保険神戸中央病院で医師の診察を受け、Yは同日から入院加療約二週間を要する鞭打ちによる頸椎捻挫、右膝、背部打撲、Tは同日から通院加療約二週間を要する鞭打ちによる頸椎捻挫と診断されて診断書を作成されたが、Yはその日から二月一九日まで入院、翌日から八月九日まで通院し、Tはその日から八月九日まで通院していたことが認められる。そして、N医師の右各診断書は、交通事故によるYの吐気、背部痛、右下腿のしびれなどの愁訴、Tの耳鳴り、頭痛、背部痛などの愁訴に基づいてなされたもので、他覚的所見によるものではなく、Yに対するレントゲン検査の結果、僅かに第四、五、六頸椎の並びに乱れが見られたが、これは肩が凝つただけで現出する程度のもので、年令的変化によるものか、本件事故によつて生じたものか医師自身不明であることが認められる。

(二)  そこで、Y、T両名の右愁訴の信用性について検討すると、前記各証拠によれば、

(1) Yは、当公判廷において、「N医師から即刻入院せよと言われたので、その場で入院した」旨供述しているが、同医師は、YもTと同様入院の必要がなく、通院させるつもりであつたのに、同人が気分が悪くて帰れないと言うから入院させたものであること、Yは事故後三カ月以上経つた退院後の昭和六〇年四月一八日の当公判廷にカラーネックを着用して証人として出頭していたが、実はN医師に初診時から二週間ぐらいでカラーネックを外すよう指示されていたことが認められ、Yの右の言動には虚偽や誇張が存し、そのうえ、同人は、事故発生の僅か三日後の一月六日病院へ見舞いに行つた被告人に対し、早くも法外な仕事上の損害についての補償の話を持ち出していることが認められるのであつて、同人の愁訴については、俄かに信用できないといわざるをえない。

(2) また、普通の姿勢で座つていた者のうちTだけが、同人の愁訴によつて頸椎捻挫を負うたことになつているのであるが、同人の当公判廷における「N医師から入院せよと言われたが、入院しなかつた」旨の供述内容は、同医師の当公判廷における供述の趣旨に反していること、N医師作成のカルテ及び同医師の当公判廷における供述によるとTの背部痛の愁訴は右側の症状であつたのに、Tの当公判廷における供述及び医師S作成の病状照会回答書によると左側の症状を訴えたことになつていて矛盾していることなどの点を考察すると同人の愁訴にもまた疑いが存する。

三(一)  Y、T両名に鞭打ち運動による頸椎捻挫が発生したか否かについて検討すると、鑑定人小鳩亨作成の鑑定書及び同鑑定人の当公判廷における供述の要旨は、「本件事故によつてK車が被告人車に右へ押されたにもかかわらず、乗員らは横揺れを感じておらず、また、乗員らが前後の揺れを感じたとしても本件のような軽微な力で鞭打ち運動による頸椎捻挫が発生するはずはない。したがつて、普通の姿勢で座つていたTはもちろん、不安定な姿勢で座つていたYにも鞭打ち運動による頸椎捻挫が発生するはずはない。」というのであり、これに、医師N作成のY及びTに対する各診断書は、同人らの愁訴に基づいて作成されたものであつて、それらの愁訴の真実性に疑いが濃いことと併せ考えると、Y、T両名に鞭打ち運動による頸椎捻挫が発生したと認めるには強い疑念を抱かざるをえない。

(二)  次に、Yの右膝、背部に打撲症を生じたか否かについて検討すると、鑑定人小鳩亨作成の鑑定書及び同鑑定人の当公判廷における供述は、「本件事故によるK車の動きは僅かであり、たとえ、Yがそれぞれの部分を打撲したとしても、治療を要する皮下出血や筋肉損傷などの打撲症を生じるとは考えられない」というのであり、これに医師N作成のYに対する診断書は、同人の愁訴に基づいて作成されたものであつて、その愁訴の真実性に疑いが濃いことと併せ考えるとYに右の打撲症が生じたと認めるについても強い疑念を抱かざるをえない。

以上の次第であるから、本件起訴状記載の公訴事実中、被告人が本件事故によつて、Yに対し頸椎捻挫等の傷害、Tに対し頸椎捻挫の傷害を負わせたとの点については、これを認めるに足りる証拠がなく、結局、業務上過失傷害の訴因は犯罪の証明がないことになるから無罪であるが、右は前記認定の安全運転義務違反の罪と観念的競合の関係にあるとして起訴されたものと認められるから、主文において無罪の言渡をしない。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官山本久巳)

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